京都文学賞02

会社を辞めて実家を継ぎたい。

 

母に面と向かって言ったのは、

 

六本木にある、

 

超高層ホテルのロビーだった。

 

別に、

母がそこに泊まっているわけではなく、

母が毎回東京に来ると姉が案内する、

いわゆる女子ウケするような、

東京の新名所であった。

 

そのホテルは最近できたばかりで、

アフタヌーンティーが有名なところ。

 

地元で働き詰めの母が、

少しでも気が晴れるようにと、

姉が気遣って連れて来た。

 

母にとって、

年に数回の東京観光は、

自分が果物屋に嫁いだ瞬間に失った、

女の子としての自分を取り戻す、

とても大事な時間だったのだ。

 

そんなファンタジーの時間を、

いとも簡単に破壊した僕の言葉に、

普段は頭の切れる母も、さすがに、

呆然とするしかなかった。

 

黙ったままの母を、

心配そうに見つめる姉の顔色を、

敢えて無視して、

会社を辞めて果物屋を継ぎたい。

と、母を刺すように言い直した。

 

予約がいっぱいのはずのロビーは、

とても静かな時間が流れている。

 

地上32階から見える東京の空が、

いつも見ている煙たく怠い空ではなく、

青く透き通った空に見えたのは、

今まで言えずに来たことを、

やっと口に出せた達成感から来ているのだろうと、思えた。

 

京都文学賞 01

京都に着いたら、まず、行く場所がある。

 

先斗町の先っぽにある、

 

古民家を改築した、

 

不思議な本屋さん。

 

その本屋さんには、

 

マスミさんという女性がいて、

 

美味しいカレーとコーヒーを出してくれる。

 

ホホホという不思議な暖簾がかかった

 

その本屋さんの中に入ると、

 

真夏の蒸し暑い時でも、

 

いつもひんやり涼しく、

 

どんなに寒い冬でも、

 

いつもぽかぽかしている。

 

井戸の水は、

 

夏ほど冷たく、冬ほど温かい、

 

って、子どもの頃、おばあちゃんから教えてもらったのだけど、

 

そんな訳ないだろうとか、

 

なぜそうなるのだろうか、

 

とか、そんなこと一切思わず、

 

ただただ、おばあちゃんの言葉を受け止めて、

 

そういうものなのかぁ、

 

井戸というのは便利なものだなぁ、

 

とだけ思っていた。

 

この本屋に入る時はいつも、

 

そんなことを思い出しながら、

 

カレーとコーヒーを注文する。

 

コーヒーは、一杯ずつ豆を挽いて、

 

ドリップしてくれる。

 

その作業の邪魔にならないように、

 

本の棚を見つめているふりをしながら、

 

真剣にコーヒーを淹れるマスミさんの仕草を眺めていた。

 

コーヒーをミキサーで挽くと、

 

それだけで店内に芳ばしい香りが広がる。

 

壁にかかったレコードのジャケットを見ながら、

 

店内にかすかに流れるジャズを聴いて、

 

コーヒーができるのを待つ時間は、

 

今自分は京都にいるのだということに、

 

体で感じるのにちょうど良い時間であった。

 

壁にかかった檸檬の木に、

 

猫のアクセサリーがぶら下がっていて、

 

外の光がかすかに反射して、

 

真鍮の柔らかい色が目に入った。