京都文学賞02

会社を辞めて実家を継ぎたい。

 

母に面と向かって言ったのは、

 

六本木にある、

 

超高層ホテルのロビーだった。

 

別に、

母がそこに泊まっているわけではなく、

母が毎回東京に来ると姉が案内する、

いわゆる女子ウケするような、

東京の新名所であった。

 

そのホテルは最近できたばかりで、

アフタヌーンティーが有名なところ。

 

地元で働き詰めの母が、

少しでも気が晴れるようにと、

姉が気遣って連れて来た。

 

母にとって、

年に数回の東京観光は、

自分が果物屋に嫁いだ瞬間に失った、

女の子としての自分を取り戻す、

とても大事な時間だったのだ。

 

そんなファンタジーの時間を、

いとも簡単に破壊した僕の言葉に、

普段は頭の切れる母も、さすがに、

呆然とするしかなかった。

 

黙ったままの母を、

心配そうに見つめる姉の顔色を、

敢えて無視して、

会社を辞めて果物屋を継ぎたい。

と、母を刺すように言い直した。

 

予約がいっぱいのはずのロビーは、

とても静かな時間が流れている。

 

地上32階から見える東京の空が、

いつも見ている煙たく怠い空ではなく、

青く透き通った空に見えたのは、

今まで言えずに来たことを、

やっと口に出せた達成感から来ているのだろうと、思えた。